■ 「空気」には何が含まれるか?
【第9回】では、その空間独自の性質である「空気」についてお話しましたが、では、その「空気」は一体何からできているのでしょう?
「そんなの、酸素とCO2と…」なんて理系さんは思うかもしれませんが(ちなみに、空気の8割は窒素だとか)、ここでは、私自身の経験と体感から成分分析すると……
空気の主成分は気体……いえ、「期待」です。うまいこと言った!
例えば、クラスで文化祭の出し物を決める際、誰からも意見が出ずに重苦しい空気が続いて、もう帰りたい……なんて時に「そろそろ〇〇さんが手を挙げて、なんか言ってくれるハズ」なんて内心誰かに期待したり、逆に、そういう行動を自分が期待されている空気を感じた経験はありませんか?
うちの長男は、こういう役目が回ってくることが多いようですが、この場合、彼は「アイデアマン」または「空気を壊す人」の役割を期待されているのでしょう。
そして、彼がいいアイデアを出して採用されれば、達成感を感じたりほっとしたりするけれど、アイデアが思いつかなかったり却下されたりすると、ストレスを感じることにもなります。
つまり、クラスの中で個人に「期待される役割(役割期待)」があり、それに応えられるか、どうか、で、その場の居心地が良かったり、悪かったりするのではないでしょうか。
そして、その状態が長期的に続くと、その環境に適応できるか、できないか、に影響するように思います。
■ 期待される役割
クラスや家庭や会社など、ある「社会の器」の中に個人が所属すると、大抵の場合、その空気の中に、その人に期待される役割が存在していることでしょう。
そして、10代のみなさんの場合、この環境から期待される役割が、【第2回】で触れたような、その人のキャラ設定(パーソナリティ)にも大きく影響するのです。
すでに、この世界で10数年生きてきたみなさんも、家やクラスなどの中で、「自分は〇〇だから、この場ではこう振る舞わなくては……」という自己暗示のようなものを、自分自身に対して意識的/無意識的にかけているのではないでしょうか。
例えば、「俺は学級委員長なんだから、みんなをまとめないと」とか、「私はしっかり女子なんだから、困っている子を助けないと」とか、「自分はモブ男子だから、目立つことは遠慮しよう」とか。
あるいは、「長男だから、ガマンしなくては」とか、「アイドルだから、完璧じゃないと」と、思っている人もどこかにいるかもしれませんね。
私は、個人が社会の中で一定の役割を期待されること自体は、いいことでも悪いことでもなく、「そういうもの」だと思っています。
「社会の一員になる」ということは、その環境の中で、何かしらの役割を担って生きていくことだと思いますし、「歯車の一部」などというと聞こえが悪いかもしれませんが、個々の人が自分の役割を果たさないと、その社会が正常に回らずに機能不全に陥る可能性もあるからです。
例えば、もしも、親が親の役割を果たさずに子育てを放棄したり、先生が先生の役割の範囲を過剰に超えて接してきたり、犯罪に巻き込まれそうな時に警察官が守ってくれなかったりしたら、みなさんも安心して暮らせないのではないでしょうか。
みなさんも、親には「親らしく」、先生には「先生らしく」、警察官には「警察らしく」、振る舞ってもらうことを(大抵の場合は)期待していることでしょう。
でも、例えば、新卒で着任したばかりの先生は、まだどこか大学生っぽかったりもするように、先生として勤務した初日から、即座に「先生らしい人」になれるわけではなく、生徒達から「先生、先生」と呼ばれ続けながら、先生らしい行動をしているうちに、次第にその役割に見合ったふるまいが身についてきて、「先生らしく」なっていくワケです(実は「親」だってそうなんですよ)。
同じように、最初はぎこちなくても、周りの期待に応えるうちに、学級委員長は学級委員長らしく、しっかり女子はしっかり女子らしく、モブ男子はモブ男子らしく振る舞うことに慣れ、いつの間にかクラスの中で、そしてその人自身にとっても、それがその人のキャラとして定着していきます。
つまり、その環境にいる人達の、役割への期待に溢れた空気が、その人のキャラを毎日コツコツ育てているとも言えるでしょう。
そして、委員長だろうがモブだろうが、その器の中で期待される自分の役割をある程度果たせていれば「居場所がある感じ」がして、その環境に適応しやすくなる、ということです。
■ 期待される役割が果たせないと…
ところが、その環境の中で、自分に期待されている役割に対して十分に応えられなかったり、本来の自分自身とは全く違う役割を期待されたり、そもそもなんの役割も期待されていなかったりすると、その環境の中で「居場所がない感じ」になって、適応しにくくなってしまいます。
期待される役割に合った行動がうまくできないと、「〇〇なのに、〜ができない」とプレッシャーを感じたり、自分よりその役にもっと適した人、上手にできそうな人と比べて「自分は〇〇にふさわしくない」という引け目や遠慮につながるのではないでしょうか。(「主婦なのに家事ができない」とか、「自分は柱にふさわしくない」とか……)
そうすると、なんだかそこに居てはいけない気がしたり、肩身が狭くなったりして、居心地が悪く感じてしまいますよね。
そしてまた、周りの人達も、相手に期待する役割に対して、その人が「期待通りに」動いてくれないと不満や不安やイライラを感じ、それが長期的に続くと「〇〇なのに」「〇〇のクセに」という、差別意識や偏見の芽が育っていくように思います。
例えば、「のび太のクセに生意気だぞ」「女なのに山田浅ェ門なんて」……的な言葉が相手から出るときは、その人に一方的に期待して決めつけている役割を果たしてもらえずに、勝手に失望したり、今の自分の立場が脅かされる気がするのだと思います。
要するに、その人がその役割を引き受けてくれないと、自分にとって「都合が悪い」のですね。
近頃よく話題になる、ジェンダー平等に関する議論も「男らしく/女らしく」「女だから/男だから、こうあるべき」という、社会から期待される役割が前提となって成り立っていることへの問いかけや疑問、不満やプレッシャーなどが、根っこになっていることも多いように思います。
■ 望まない役は降りていい
その環境の中で「期待される役割」を引き受ければ、そこに自分の居場所ができるけれど、それが本来の自分が望まない役割であれば、絶対に引き受けなくてはならない、というものでもありません。
特に、10代のみなさんは、いくつものキャラを統一しながら「自分らしさ」を手探りして、現在進行形で「個性」が作られている大事な時期でもあります。
望まない役割を引き受けて、無理に頑張り続けてその役としての振る舞いに慣れてしまうと、本来の自分とのズレが広がってしまい、「自分が自分ではない気がする」「自分がわからない」など、大人になっても深刻に悩み続けてしまう可能性もあります。
もし、あなたが今期待されている役割が「本来の自分」や「なりたい自分」(あるいは「あってもいい自分」)と違う気がしたら、「期待に応えられなくて、ごめんなさい」って、とっととその役を降りてしまっていいんですよ(できれば早めのほうが、ダメージが少ないでしょう)。
大人になると、家族や他人の生活への影響など社会的な責任が増えるので、一度引き受けた役をそう簡単に降りられないこともあります。
でも、10代のみなさんは、「本来の自分」「なりたい自分」への軌道修正が、今のうちなら全然余裕で間に合いますからね。(「本来の自分」や「なりたい自分」がまだよく分からない人は、少なくとも「なりたくない自分」から降りていくと、だんだんそれが見えてくるかもしれませんね)
自分で引き受ける役割を取捨選択することは、自分の生き方を自分で決めるということです。
そして、「どう生きるか」という人生の難題は、「どういう役割を引き受けて(引き受けないで)いくか」と同じ意味だと、私は思います。