現在、「今までの自分のイメージ」と格闘しながら成長中の長男を、ちょっとだけ後方から援護したくて、描いたイラストです。
私は、子どもが(自分自身も)自分の発達の特徴について知り、苦手と上手につき合う工夫をすることで、無理に欠点克服せずとも、ほどほどに社会の中で自分を活かしていけると思っています。
また、学校との連携などでは、「障害」として、お医者さんの診断名を伝えたり、知能検査の結果などの「証拠」を見せなければ、なかなか合理的配慮や理解を得にくい現実(あるいはもっと厳しい現実)に直面されている方も多いと思います。
ですから、うちもそうやって根気よく伝え、配慮をお願いしながら、なんとか今までやってきたことはムダではなかったと思っていますし、障害名や特徴を伝えてきた結果、長男が学校でできるようになったことも増えました。
やっぱり、言葉にして伝えていかなくては、他の人には想像できないことは沢山あります。
だから、「発達障害」や「ASD」「ADHD」「LD 」などの言葉は、自分の特徴を理解し、説得力をもって周りに説明するための効率の良い記号として、また、当面は理解や支援方法が広まり定着するまでの、ひとつの過程として、ケースバイケースで必要なことだと思っています。
ただ、現在の日本の発達障害に対する理解・支援体制は、まだまだ充分とまでは言えないように思います。だから、「障害」として伝えて、苦手なことへの配慮や理解をお願いしていくことと、相手に先入観をもたれてしまうこと、レッテル貼りによる不利益、「できない子」として扱われ、その子の可能性を狭めてしまうことへのリスクなどとは、背中合わせの面があり、場合によっては舵取りがとても難しく、私自身、今も迷いながら、模索しながらの日々でもあります(現在は、障害名を使わずに配慮をお願いする伝え方を研究中です)。
そして・・・
当たり前といえば当たり前のことなのですが、「発達障害」は、長男の個性そのもの・全てを表す言葉ではないんですね。あくまで、彼の一部に過ぎないんです。
でも、「一部」と言っても、そこだけ独立してる訳でもなくて、やっぱり発達の凸凹は、その子の全体像に結構影響しているとも感じています。
だから、「発達の凸凹」は、その子の個性にとっては、血管や水道管のようなものなのかも、と思って、こんな樹のイラストを描いてみました。
(あくまで、私個人のイメージですので、医学的事実とは異なります)
この、その子が生まれつき、元々持っている生き物としての個性である、発達のための管の太さ・細さの違いによって、
・ほっといても栄養がよく届いて、勝手にぐんぐんと育つ部分
・丁寧に育て、ケアをしながら、ゆっくりと育つ繊細な部分
の偏りがあるので、その子特有の樹の形が次第にできてくるのだと思います。
でも、その子の全てがこの「発達の管」の特徴だけで決まってしまうかというと、そうではなくて、経験や環境によっても、育ち方は変わってきます。
日常生活や人との関わりの中で、3食食べながら、肯定的で豊かな経験を積むことができれば、目には見えないけれども、それはちゃんと成長のための栄養になっていて、どんな形をしていても、幹の密度の高い、生命力の強い樹になるように思います。
そして、周りの環境によっても、成長のしかたは大きく違ってきます。
風当たりの強い環境に置かれたままだと、凹ばかり目立ってしまい、樹全体も不安定になって、ぐらぐらしてしまうかもしれないし・・・
日当りの良い環境で、のびのびと凸や、好奇心の芽を伸ばす事ができれば、地面にしっかり根を張って、全体が倒れにくくなるものと思っています。
そしてね。
例えば・・・家にとっての水道管はライフラインとして大事な要素だけど、そのことだけ話していても、家全体のことは分からないのと同じように、長男のことを理解し、寄り添い、見守っていくためには、「発達の凸凹」にだけ注目していたら、彼の全体像は分からない、と、このところ、感じられる事が私には多くなりました。
特に「気持ち」や「感覚」「興味関心」などというのは、発達の特性の影響を受けつつも、どんな人でも一人一人違うのと同時に、人類共通の普遍的なことでもあるので、「ASDだから、こう」「ADHDだから、こう」では、説明しきれない部分も沢山あると思うんです。
更に、ASDとADHDとLDタイプが複合している彼には、そういったキーワードは、困りごとの解決方法を探るためのヒントや手がかりにはなるけれど、例えば、「視覚優位のASDタイプは、紙に絵で描けば伝わりやすい」けれども、「ADHDのうっかり特性もあるので、その紙を見るのを忘れる」なんてカンジで、タイプ別の対応どおりでは、すんなりとは素直にゆかないコトは、本当によくありました(うちではこの場合、「その都度、声かけで気づかせる」を併用してきました)。
また、例えば、同じASDタイプであっても、同じ視覚化の配慮をしたとして、ある子は「分かりやすい、助かる」と思い、ある子は「恥ずかしい、申し訳ない」なんて感じてしまうかもしれません。
これも、発達の特性だけでは割り切れない、その子の今までの人生経験の積み重ねや、今置かれている環境、あるいは、想像力や共感力の幅や強弱、情報の受け取り方や解釈の仕方の違いなどがあってのことだと思います。
発達障害に限らず、どんなサポートでも、障害名にとらわれ過ぎずに、その子・方そのものをよく観察し、気持ちを丁寧に聴いて、個別にカスタマイズして、柔軟に応用・アレンジしながら、一人一人のニーズに合わせていく必要があるのでしょうね。
そして、その存在を忘れてはならないな、と最近よく思うのですが、長男には「みんなと同じ」部分も、沢山あるんですよね。
例えば、同じ年頃の男の子達と同じように、ゲームやマンガが大好きだったり、弟としょーもないギャグを言い合ってゲラゲラ笑ったり、給食のおかわり争奪戦に参加して、勝ったの負けたのとぶつくさ言ってみたり・・・
ごくフツーの、小学生男子なところだって、彼を形づくる大事な部分なんですよね。
そんな、美味しいものを美味しいと思うような、「フツーっぽさ」の感覚が多少でもあることが、独特でユニークな感性を持ち、精神面での凸凹差も大きいために、同級生と話が合いにくく、なかなか親しい友だちができにくい彼を、完全な孤立状態から助けてくれている気もします。
私は「誰にでも凸凹はあるのだから、本当は、フツーの子は一人もいない」と、あちこちで伝えてきましたが、それと同時に「平均的」ではなく「普遍的」な、他の人と共有できるフツーっぽさの感覚も、凸凹さんだって沢山持ち合わせているようにも感じられます。
だから、彼自身は、周りとの違いが気になり始める年頃で、いろいろと思うこともあるようですが(私も思春期の頃は特にそうでした)、今の私は、平均値や多数派、見えない常識としての「フツー」との、多少の「違い」はあっても、普遍的に共有できる部分はあるのだから、決して、「フツーは敵ではない」と考えています。
「凸も、凹も、フツーも大事」で、そんな自分を全部合わせて「なんとな〜く、自分を全体的に大事に思える気持ち」を、本当の意味での「自己肯定感」と言うのかもしれないな、なんて思っています。
そして、正直な話。
その時の環境次第で、気になったりならなかったりする「障害」のある・なしや、本人の成長と周りの子達との関係性で、表面に浮かんでくることが次々移り変わってゆく発達の特徴への「診断」のある・なし、なんて、私もなんだかそろそろメンドクサイから、「もう、うちの子の診断名は『◯太郎』ってコトでよくない?」なんて思うことも・・・
だって、彼のすべてを表す言葉は「◯太郎」という名前以外にはないのですから。
「◯◯障害だから」ではなくて、「◯◯くんだから」という共通の理解で、その子のいる世界で、どんな子もそのままの形で受け容れられるように。
誰もが、その子に合った環境・学び方・さり気ない配慮を、自然に当たり前にフツーに得られるように。
どんな子も、一人一人の個性の形を大切に、特別にされる日が、なるべく早く来るように、一母親として願いつつ・・・
海の片隅で小石を投げるように、最近の長男を見ていて、私があれこれと思い浮かんだことを、一枚のイラストにぎゅーっとまとめて描きました。
少しずつ、彼と同時代を生きる子ども達を待つ未来の何かが、変わってゆくといいな・・・なんて願うのは、私の絵空事でしょうか。 ******* 【支援ツールのシェア】 もし、このイラストを気に入って頂けた方がいらしたら、何かのお役に立てて頂ければ嬉しいです
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メルマガをお読み下さり、ありがとうございます。 私も自分の凸凹特性は大事に思っていますが、(多分)フツーの主婦さんと同じように、「今日の夕飯考えるのメンドクサ〜イ」と、いつも思っています。 こういう普遍的な部分もあるおかげで、最近はほどほどにご近所ママさんと立ち話できます 楽々かあさんより。
初出:メルマガNo.075(2017.5.26.発行) facebook 楽々かあさんのアイデア支援ツールと楽々工夫note2017.5.26·投稿-No.192