こんにちは。楽々かあさんです。 今年は、夏休みの短縮や新型コロナの再拡大などで、予定変更の連続で本当に大変だと思います。少しでも、疲れや不安、ストレスなどが親子で軽減されるといいのですが…。 今回のメルマガは、今、私が考えていることを…。 新型コロナと新著刊行などを機に、準備不足のまま、見切り発車的に発信活動を再開してしまったワケですが、実はこの数年間、私がずっと考え続けてきたことがあります。 私は、うちの子含め、「凸凹さん達を、なんとかして、日当たりのいい場所に連れてってあげたい」という想い…というより、祈るような気持ちでいるのですが、 それには、「発達障害」にだけ目を向けていたら、できないんじゃないかな、と思うようになりました。 もちろん、「発達障害」というキーワードは、私の活動の原点であり、数々の子育てノウハウの基本の土台にもなっているのだけど、そこを深く突き詰めるのは専門家の方々にお任せして、うちの子専門家ならでは、楽々かあさんならではの独自の視点で、子育ての傍ら、「できる範囲で、できること」を、これからも、できる限りは続けたいと思います。 「障害」というものは、医学的な診断の有無に関わらず、私は本人の個性と、その子の成長と、周りの環境との関係次第で、あったり、なかったりするものだと、いつも思っているので、 その子の側にある「発達障害」の部分だけを、なんとかしようとしても、凸凹さんの生きづらさの全てを解決するのは難しい気がするんです(参考blog「ぼくの樹図 発達の凸凹≠その子の全て」)。 まずは、本人・家庭でできることをするのが「順序」だと私は思っているけれど、それでも、その子の側の努力だけでは、解決できないことは、本当にたくさんあります。 例えば、多動性・衝動性の強い子が「カッとなった時にはどうしたらいいか」の方法を、SSTやアンガーマネジメントなどの本人と親の根気強い努力で身につけられたとしても、もし、教室にその子の我慢の限界がくるまで、執拗に挑発し続ける子がいたとしたら、どうでしょう。 相手に何度も「やめて」と言ってもやめてくれない時に、それでも「何があろうと、手を出したらアウト」と、ひたすらガマンし、耐え抜くことを教えるしかないのでしょうか(実際、こんな場面は中高生ではよくある光景だと思います)。 あるいは、障害のある子へのサポートや「合理的配慮」は、本当に切実に必要なことだけれども、現場の先生に過剰な負担がかかったり、教室で特別扱いされたり、先生が「お世話係」の子にサポートを丸投げしてつらい想いをさせてしまったら、かえってそれが偏見や差別感情や、いじめ行為につながってしまう可能性はないのでしょうか(うちの子達も、お世話するほう、されるほう、どちらの立場もそれぞれ経験しました)。 また、学校側や担任の先生に「発達障害です」と伝えて、負担が減ったり、適切な対応が得られるメリットもあるけど、レッテル貼りや「できない子」として扱われることのデメリットも、私達親子は度々実感してきました。 例えば、先生が良かれと思って「みんなで〇〇君を助けてあげよう」とすることで、クラスがまとまりやすくなったり、皆が優しく接してくれたり、苦手なことを誰かが善意でやってくれる反面、対等な友人関係を築くのが難しくなったり、その子がクラスでの居場所を確保して適応するために「できない子」の役割を引き受け続けてしまい、その子の成長や「できるようになったこと」が後退してしまう面はないのでしょうか(うちの長男にはありました)。 私は、凸凹さんは、ほんのちょっとの工夫や配慮で、(「みんなと同じ」方法ではなくても)「一緒にできる!」ってことは、本当に沢山あると思っているのだけれど、合理的配慮や特別な支援をお願いする子に対して「〇〇君ばっかりズルい!」と言ったり、学校に「不公平だ」とクレームを入れる保護者さんは、なぜ、そう感じられてしまうのでしょう。 そして、「発達障害」という言葉は、近年随分メジャーになったけれども、教室で問題行動を行う子は、本当にみんな「発達障害だから」なのでしょうか。 例えば、「みんなと違う子」や「コミュニケーションが苦手な子」「人一倍優しい子」などをターゲットにいじめ行為を行う子の心には、どんな背景があるのでしょう。 「言葉が通じない」「相手の気持が分からない」のは、本当に「あいつ、アスペだから」に限った話なのでしょうか。 教室で立ち歩く子への「あの子って、ADHDだよね」は、本当に事実なのでしょうか。 (あくまで私がうちの子達から聞いた話ですが、小学校でも中学校でも「本当にごくフツーの子が、悪気もなく、授業中に席を立って出歩いてるのは、よくある」とのこと) …もし、違うとしたら、本当は、何が彼/彼女らをそうさせているのでしょう。 そして、発達障害のある・なしに関わらず、その子達も、周りの大人からのなんらかの助けを求めていて、大事に、特別に扱われたいことには、変わりないのではないでしょうか…。 こんな、凸凹さん達と、周りの人達や、環境との関係性の中で生じる答えの出ない問いに対して、なにがベストなのか、ベターなのか、多少マシなのか…などを私なりにずーっと考え続けてきて、 それから、長男の中学受験と自分に合った学校への進学や、次男の不登校とそこからの回復などを経験して、環境と本人の成長次第で「障害を感じなくなる」「違いがあんまり気にならなくなる」ことも本当にたくさんあって…(参考:LITALICO発達ナビ 寄稿「本当に「発達障害だから」学校がキライだったのか?中学校生活を楽しむ息子と私が受けた5つの衝撃」2018.7.17公開)。 結論としては、「発達障害のある子」と、いわゆる「フツーの子」との間に線引きをせず、また、「発達障害」のキーワードだけにとらわれずに、もう少し視野を広げて、社会全体のことや、いわゆる「フツーの子」達の抱えている課題や、うちの子達の中にもある「フツーの部分」など、「違い」と「同じ」の両方に目を向けて、お互いが歩み寄ったり、無理しない「ちょうどいい距離感」をつかみながら、この社会の中で「共に生きる」方法を探っていきたいなと、現在は思っています。 ましてや、今はコロナのことで、どうしても情報が偏ったり、視野が狭くなりがちなので、意識的に視点のピント調節をすることを心がけようと思っているところです。 少々「発達障害児支援」「特別支援教育」などの王道からは、外れてしまうかもしれませんが…(元々そうだったかもですが〜笑)。 まだ、私自身もハッキリとした答えは見えませんが、いつも、ちょっとずつ、皆さんから元気玉を分けて頂いているおかげで、本当に微力ながら、もうしばらく、手探りを続けようと思います。 どんな子も、日当たりのいい場所へ…
「いろいろひまわり」 同じ場所で咲いてても、よーく見ると、それぞれ色の違いがあるね。それでも、どんな子も、明るいほうを向いて、大きくなるんだよ。 …っていう、メッセージを込めました。よかったら、なにかの挿絵にでもご活用頂けたら嬉しいです。
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